横井 千秋 よこい ちあき
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寂しい 下草の恋 燃ゆるとも 志る人並みの下草は 遂に庇かぬ 例なるらん(=だろう) |
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隣家 竹鶯 呉竹の 他所ならぬ音よ鶯の ただ葦垣を 隔てにはして |
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6p×36.3p×2 |
元文3年3月1日(1738年4月19日)生〜享和元年7月24日(1801年9月1日)歿 |
尾張藩重臣(700石)横井時醇と同藩士・玉置直連の娘の三男。本姓は平、名は宏時、諱は時広、後に宏時、通称は金吾・吉平・十郎左衛門、千秋・木綿苑・田守(宣長命名)と号す。 宝暦8年(1758)に兄・横井時辰の後を次いで700石を与えられる。側小姓から書院番頭・部屋用人(御用人)などを務める。 賀茂真淵十三回忌追慕歌集『手向草』に歌を出していることから、最初は、田中道麿に師事したと思われる。道麿が没した翌年の天明5年(1785)に本居宣長の門人となるも、公務のために専ら書状で指導を受けることになった。 尾張藩の漢学偏重に対して、国学をもって藩政改革を進めようと、天明7年(1787)には『白真弓』を藩主徳川宗睦に献上し、宣長を藩に迎えようとするが、千秋の意見は藩の採用するところにならず、寛政4年12月29日(1793年2月9日)に致仕(辞職)している。 また、宣長の著書である『古事記伝』や『古今集遠鏡』が刊行されないのを嘆いて私財を投じてその刊行の実現に奔走し、尾張藩の要人に献上する工作を行った。宣長は著書『神代正語』にて、千秋を「横井千秋主」と最上級の敬称で記して門人として格別な評価を与えている。 隠居後は宣長を継いで『日本書紀』の改訓を企てるが、実現することなく病没した。 著書の多くは火災によって失われたとされ、『八尺勾瓊考』・『天真中詞』など数編が残されているのみである。 推奨サイト https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%8D%83%E7%A7%8B http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/yokoi_chiaki.html |